心にまかれた種というモノ
- Ayako Lux
- 2024年4月24日
- 読了時間: 7分
更新日:4月9日
心の原風景、そう聞いて皆さんはどんな風景を思い浮かべられますか?あなたの心の奥にある懐かしさを伴うような原初の風景ってどんなでしょう?
私は幼い頃、毎年夏になると母の故郷である九州の五島列島へ連れて行ってもらうのを楽しみにしていました。父は仕事があったので大抵は母と弟と一緒に祖父母の家に泊めてもらい、そこから海へも山へもテクテクと歩いて遊びに行くのが夏の日課でした。
遠浅の海で、母の手を頼りに泳ぎを覚え、水遊びに疲れると岩場で見つけた小さな巻き貝をその場で焼いて食べる。潮の香りとほろ苦い貝の味。
子供の足でも何とか登れる裏山では、スケッチブックに景色を描くと緑と青ばかりの絵になる。濃い草の香り。
島のお盆は盛大な行事で、里帰りの人で島行きの航空券は直ぐに売り切れてしまうほど。たくさんの提灯が墓地に灯ってお墓が宴の場となり、それぞれの家の墓石の前で集集い、大人たちの談笑する傍らで花火をしました。
幼馴染やいとこ達と五島弁で笑い合う母のくつろいだ笑顔とともに、そんなシーンは私の幼心に原風景として焼き付いていました。豊かな自然と温かく人情溢れる島の人たちと母の笑顔は、私の心に幸福感の種として撒かれたのです。
そんな夏の輝く日々は瞬く間に過ぎ、すっかり日焼けした肌が黄金色になった頃、夏の帰省は終わり父の待つ家へ帰る日が来ます。空港へ向かう車の中で何度も振り返り涙する母と見送る祖母の遠く小さくなっていく姿は、私の心に、痛みを覚える哀しみの種として撒かれました。
島での光に満ちた夏のつかの間の日々。それはいつもいつまでも変わらずそこにあるものではなく、夏の終わりと共に別れの時が来て、当たり前の日常に戻っていく。非日常から日常へ戻る時、その間をつなぐものは涙。季節は移ろい、風景は変わり、人は歳を重ね、今年会えた人にまた来年も会えるとは限らない。それが世の常だとはわかっていても、悲しいものは悲しい。
望郷というメランコリックな物哀しさの中に美しさを見出す美的感覚は「 もののあはれ」として日本では万物に霊性が宿るという考え方とともに昔から、人間同士においてはもちろん、草木や石、虫の声にも感じ入ることのできる心の機微として、大切にされてきました。
江戸幕府が、中国から入ってきた儒教、とりわけ朱子学を統治原理とし、理論ばかりが重視されて行く中、本居宣長は、万葉集や源氏物語など古くからの日本文学において本質となっている情感、しみじみとした優しさや深い感動こそ、大切にされるべきだと諭して「もののあはれ」を以下のように定義しています。
「人は何事にまれ、感ずべき事にあたりて、感ずべきこころをしりて感ずるを、もののあはれをしるとはいふを、かならず感ずべき事にふれても、心うこかず、感ずることなきを、物のあはれをしらずといひ、心なき人とはいふ也」
現代語風に訳すとこんな感じでしょうか。「人とは何事においても感じてしかるべきものである。心を持って感ずることを物の哀れを知るといい、感ずる事に触れても心動かず感じないのを、物の哀れを知らぬと言い、心なき人という。」
心を持って感ずることは大切である。心なき人にならぬようにと宣長は説いています。
あの幼い日の私の心は、母の喜びとその対極の哀しみに触れて動きました。島の豊かな自然とそこに宿る精霊、島の人々と、人々と共に在る目には見えぬ御先祖達の霊、そういったモノすべてが、別れという瞬間に哀しむ心と相まって心に迫ってきた。それが、もののあはれを知ったということなのだと思います。
ここでいう「モノ」、もののあはれの「モノ」は、日本人の心に脈々と流れる大和心とでもいう「モノ」だと思うのです。
縄文時代、1万年前頃の日本は太平洋圏の一部としてその北端に位置していたと言われています。そして当時日本に南方からもたらされたのがマナ信仰だったのではないかという説があります。マナとはハワイ語で目に見えない力、という意味です。このマナmanaが日本に渡ってモノmonoと発音が変わったのではないかという学説があり、マナ信仰はモノ信仰とも言えるわけですね。ここでいう「モノ」は、物質としての物とは違う、目に見えないものの力です。
私が母を通じて得た「モノ」を感じる感性の種は、私の中で私自身が気づかぬまま、根を張りゆっくり時間をかけ、様々な体験や、出会った人達からの影響を吸収して育ち続け、季節ごとに花を咲かせ、実をつけ、様々な形をとって、時には私の子供へ、別の時には近しい関係にある友達や仲間へ、あるいは不特定多数の、私のこの文章を読んでくださっている方々のもとへも種となって拡散していきます。
私が拡散させた「モノ」の種を受け取った人が、その人の心に根付かせるかどうかは受け取り側の意思によるべきで、私に決定権はありません。種は私の心で育った「モノ」 ではありますが、私から飛び立った時点で私個人の「モノ」ではなくなっているのです。植物がその種を抱え込んだりはしないのと同じことです。種は風に飛ばされて何処かへ舞っていき、土の上に落ち、その場所で育つかどうかは種と種の落ちた土次第ですよね。
私たち人間もそうです。
精子と卵子が融合して受精卵となる。受精卵は孵化し、その胚が母の子宮内膜に根を張り着床する。胚は受精卵の卵殻を破って出てこなければならないし、子宮内膜は胚を根付かせるための接着分子を出さなくてはいけない。つまり新たな命の元である胚とそれを育てる母体、この両者が双方とも働きかけないと着床できないのです。
母と父の融合体である新たな命の卵ができる。そしてその卵の殻を破ってまず杯が出てくる。この杯は命の核であり、新たな命である本人ですね。杯=本人、の卵の殻を破って出ようという意志と、子宮内膜=母、の杯を根付かせて育てようという意志の合意があって初めて根を張り命が育ち始める。受精卵という種が育つかどうかは、種その「モノ」の決意と、その土壌となる母体の合意が両方必要なんですね。ここにも「モノ」があるわけです。言い換えれば種には「モノ」が宿っているということです。「モノ」と母体の和合があって初めて命の種は芽生えるわけですね。
ここで重要なのは「モノ」の元となった、つまり人でいうと受精卵の元である父と母には「モノ」の所有権や決定権はないわけで、「モノ」はあくまで本人の「モノ」で、本人がそこから独自の「モノ」を自らの意思で育んでいくんですね。育つために先ずは母の助けが必要となるわけですが。
種が育つ土壌は豊かで汚染されていない状態が望ましいですよね。母なる自然、と言いますが、正に母は自然そのもの。自然が汚染されていては種がうまく育たないのと同様、人間のお母さん達、女性達も健やかで豊穣であり続け、種をしっかり根付かせ安定させる環境が培われていてほしい。女性は生まれた瞬間、いえ、それ以前の、胎内で女の子になると決めた時点でその胎児は700万個もの卵子を抱え持つそうです。女性の体は想像を絶する命の可能性を秘めているのです。大切に大切にケアされるべき存在ですよね。
そして、種である本人自身も、目には見えない「モノ」、内面にある、言葉では言い尽くせない理屈では説明できない意思と言いますか、魂そのものにもっと大きな信頼を寄せていいんだと思います。
種は小さな一粒ですが、そこから芽吹き、大木に育ち毎年沢山の花を咲かせ実をならせる大きな奇跡を内包しています。それは誰にも奪われたり損なわれたりしないものです。
私たちはもっと自分の持つ奇跡を信頼していいんです。どうすれば信頼できるのか?それはあなたその「モノ」と大いなる「モノ」とのつながりを思い出すことです。真我とも言われるモノ、それはいつだってあなたと一緒でいつもそこにいてくれるモノなのです。
日本に縄文時代からあったマナイズム、それは目に見えない力を感じ取る心。日本人が大切に培ってきたもののあはれという大和心。物質の時代が行き詰まりを見せている今、私たちはもう一度心を取り戻す時代に来ているのではないでしょうか。




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