愛を弔うという営み
- Ayako Lux
- 7月25日
- 読了時間: 3分
愛する猫が突然旅立ってから、10日が経ちました。小さな命の不在が、私の中に大きな余白を生んでいます。
その静けさの中で、私はあらためて「死」と「弔い」について、深く考える時間を過ごしています。
11歳の命は、まるで急な嵐に攫われたかのように、ふっと消えてしまった。そのことに、どんな意味があったのだろう?私に何を伝えようとしていたのだろう?——そんな問いが、頭の中をぐるぐると回っている。
その猫が生まれた年、私は夫を亡くしている。悪性脳腫瘍だった。宣告を受けてから20ヶ月という月日をかけて、彼はゆっくりと命を手放していった。その間、弱っていく彼に寄り添うのは、辛く悪夢のような時間だった。
一方、愛猫の最期はあまりにも突然で、様子がおかしくなってから1時間も経たないうちに、その小さな身体は息を引き取っていた。
命の燃え尽き方、死の迎え方。その違いをあらためて思い知らされる。そして、送る側としての心の在り方や弔い方についても、否応なく向き合わされている。
かけがえのない存在を失う——それは、とてつもない悲しみだ。でも私は知っている。悲しみを感じ切ることこそが、立ち直るための第一歩であることを。そして、できる限りその痛みを避けず、まっすぐに感じた方がいいのだということも。
たとえ心が血を流しているかのように感じたとしても、その傷を見て見ぬふりをするのではなく、しっかりと見据える方が、結果的には早く癒えていく。そんな経験を、私はしてきた。
そして、できる限り丁寧に、愛を込めて弔うこともまた、癒しの一部だと感じている。
夫が亡くなったとき、彼がアメリカ人だったこと、そして私たちがアメリカに暮らしていたこともあり、私は現地の「死の文化」に無知だった。だからこそ、遺体の扱い方の粗雑さや、死に対する距離感に戸惑い、大きなショックを受け、それがそのまま心の傷となった。
それに対して、愛猫のときは、動物霊園で丁寧に見送ることができた。遺体は心を込めてケアされ、最期の瞬間まで「大切な命」として扱われた。そのことが、私の心をどれだけ救ってくれたことか。
文化の違い、宗教観、価値観の違い。確かにそれはある。でも、それだけでは片付けられない「命の扱い方の違い」を、私は痛感している。
それにしても、現代においてこれほど「死」に関する知識や体験が閉ざされていることに、あらためて疑問を感じる。
生きるということは、いつか死を迎えるということでもある。それなのに、なぜ死はこれほどまでに語られず、忌み嫌われる存在になってしまったのだろう?
愛するものの死と向き合うことは、とても苦しいこと。けれどそれは、生きることの延長線上に確かにある、大切な時間なのだと思う。
「どう生きるか」を語ることも大切だけれど、「どう死と向き合うか」を知っておくことも、私たちには必要なのではないだろうか。
その準備こそが、ほんとうの意味で「今を生きる」ことにつながっていく。
今、あらためてそんなふうに感じています。

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